城博コラム
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土佐史の人々-初期-

2019.11.27
  • 土佐史の人々

初期

湘南和尚 (しょうなんおしょう 不詳~1637)

 山内一豊夫妻は天正13年(1585)年の大地震で一人娘の与祢(よね)を失い、その後男子を養子に迎え、拾(ひろい)と名付け養育した。 これが後の湘南和尚である。湘南は武士にはならず禅門に入り、土佐へは慶長6(1601)年入国し、吸江庵(ぎゅうこうあん)へ入った。 同庵は夢窓疎石(むそうそせき)が鎌倉時代に開山し、室町後期以降その権威は失墜していたが、湘南は吸江寺の住職として、その再興に努めた。
 また、湘南は吸江寺と兼務しつつ、一豊夫妻が建立した大通院がある妙心寺で修行を積み、晩年は同寺の住職となり、朝廷から紫衣(しえ)を賜い、和尚の称号を許された。
 寛永14(1637)年7月23日吸江寺にて死去。

阿姫 (くまひめ 1595~1632)

 阿姫は、徳川家康の異父弟松平定勝の息女として誕生、11歳で家康の養女として土佐藩2代藩主忠義へ嫁した。 父松平定勝は、掛川城主・伏見城代・桑名藩主という経歴を持つ徳川家門であり、阿姫の兄弟定行と定綱も伊予松山藩主、伊勢桑名藩主として幕政で重用された。
 阿姫の親兄弟からの情報や助言は、土佐藩の対幕府政策や藩政にも大きな影響を与え、彼らとの関係があってこそ、土佐藩は不安定な初期の幕藩関係を無事乗り切ることができたのである。
 阿姫は元和9(1623)年に子供ともども江戸へ移り、寛永9(1632)年2月13日に江戸屋敷で死去、湯島常本山雲岸寺にて火葬、光照院殿泰誉皓月大信女と号された。

山内忠直 (やまうちただなお 1613~1667)

 忠直は2代藩主忠義と徳川家康の養女阿姫の二男として土佐で誕生。 寛永7(1630)年従五位下修理大夫に叙任し、明暦2(1656)年忠義の隠居に際し、幡多郡に三万石を配分された。 中村支藩の成立である。 山内家ではこの他に、指扇山内家・麻布山内家・西邸・追手邸などの分家が江戸時代を通じて創出されたが、領知を持つ支藩として独立したのは、中村山内家だけであった。
 忠直は寛文7年6月9日中村にて死去。 宝谷山大用寺に葬られた。 法名は顕徳院殿傑岩宗英大居士。 忠直の死後、中村藩は豊定(とよさだ)・豊明(とよあきら)と続くが、元禄2(1689)年豊明の失脚により改易となり、消滅した。 所領は幕府領となり、同年9年改めて土佐藩へ返還され、本藩による一元的支配が確立した。

山内康豊 (やまうちやすとよ 1594~1625)

 一豊の弟で2代藩主忠義の実父。  関ヶ原戦後、一豊が土佐の国主となることが決まると、康豊はいち早く入国して領内の安定に努め、慶長6年には西方の押さえとして幡多郡内に二万石を与えられ中村に配置される。
慶長10(1605)年初代藩主一豊の死後、若干14歳で藩主になった忠義と、その後見役を勤めた康豊は、その政策を継承し展開させていった。
 慶長期の土佐藩は、他藩とかわることなく駿府・江戸・名古屋城等の普請や大坂の陣等の過重な軍役を課された。 わずかな失態で改易になりかねないという緊張した幕府とのやりとりをこなし、一方で藩政を確立させるのは若い忠義一人でできることではなく、康豊が果たした役割の大きさは想像に難くない。
 寛永2年8月29日、高知屋敷にて77歳で没し、要法寺に葬られた。

妙玖院 (みょうきゅういん 不詳~1618)

 初代藩主山内一豊の弟康豊の妻。 2代藩主忠義や中村山内家2代政豊・指扇(さしおうぎ)山内家初代一唯(かずただ)などを産んだ。 慶長4(1599)年、加賀藩の前田利長が母を人質として江戸へ住まわせたことを初めとして、諸大名は自ら進んで、徳川氏に対し異心がない証である「証人」を差し出した。 山内氏も同5年より一門や家臣などを証人として差し出しており、妙玖院も、同17年、藩主忠義の弟(妙玖院二男)政豊と交替すべく証人として江戸へ赴いた。 後に、家臣ではなく、大名の妻子が証人として江戸に居住するようになるが、妙玖院は、この制度が確立する以前に藩主の生母として江戸で居住し、人質として重要な政治的役割を果たしたのである。

山内吉兵衛政豊(秀豊・良豊)
(やまうちきちべえまさとよ(ひでとよ・よしとよ) 1598~1629)

 土佐藩初代藩主一豊の弟・康豊の次男。 父の隠居に伴い、所領中村三万石を継ぎ、寛永6(1629)年4月8日に死去。
 関ヶ原前夜、下野小山の陣で一豊が居城掛川城の明け渡しと人質の差し出しを発言した時、当時わずか2歳の政豊を人質として差し出した。 その後、政豊は徳川家に対する忠誠の象徴として、証人(人質)の名のもと慶長18(1613)年まで江戸にあり、証人を解かれて、土佐に初入国したのは15歳の時で、父の領地中村に住んだ。
 元和元(1615)年、清水浦に漂着した黒船に対応した際には、証人として幕府の動静を間近に観察した政豊故の判断で、「我等在江戸之時分」に見聞きした幕府の漂着船処理の方法を参考にした的確な指示を出している。

北川豊後貞信 (きたがわぶんごさだのぶ 生没年不詳)

 山内一豊が土佐へ入国した慶長6(1601)年に開始した高知城築城にあたり、城郭の土台となる石垣工事を担当した近江国穴太(あのう・滋賀県)出身の技術者。
 北川豊後のような石工技術に定評のある近江国穴太出身の技術者を、出身地名をとって「穴太衆」と呼び、彼らは江戸時代初期の築城ラッシュの中、全国の諸大名に召し抱えられた。
 穴太衆は主に城の石垣を築く技術をかわれ土佐に招聘されたのであるが、彼らの子孫は石垣の修復の他に、藩主の墓所の造営や、城下町の南北にある鏡川・江の口川両川からの洪水から城下町を守る大規模な堤防の築造などにその技術を活かし、高知の城下町が発展していく基盤を作ったのである。

五藤為重 (ごとうためしげ 1558~1629)

 為重は永禄元(1558)年、一豊の父盛豊の家臣であった五藤清基(きよもと)の次男として、尾張黒田に生まれた。 兄は一豊古参の家臣であり、利根坂(とねざか)の戦いで一豊の頬を貫いた鏃を、顔を踏んで抜いて助けた五藤為浄(ためきよ)。
 幼少の頃に父と離れ流浪していたが、一豊に呼ばれて仕えるようになると、兄為浄とともに一豊に従って各地を転戦、武功を重ねていった。 天正11(1583)年の伊勢亀山城攻略で兄為浄が戦死すると、兄の跡を継いで五藤家の当主となり、一豊の重臣として活躍した。 一豊が土佐に入国すると、兄為浄の功と為重自身の功により、東の要地であった安芸に1100石を与えられて安芸城を預けられる。 以後、五藤家は土居付家老の一人として藩政を補佐した。

山内(野々村)迅政 (やまうち(ののむら)としまさ 1569?~1614)

 本姓を野々村、右衛門九郎・内記・因幡(いなば)と名乗り、山内一豊に掛川で召し抱えられた人物。 はじめ豊臣秀吉に仕え、天正末期に秀吉の職人を斬り高野山に身を隠していたところ、この経緯を聞いた一豊に呼び寄せられ、450石で召し抱えられた。 一豊の土佐入国後に山内姓を賜り、山内内記と改名、4500石を拝領した。
 その後、迅政は関ヶ原の戦い前夜に、大坂から届けられた一豊夫人の書状を一豊の命により未開封のまま家康に届ける使者を務めるなど、山内家の重要な局面にたびたび登場し、土佐入国後も藩の重臣として活躍した。
 慶長15(1610)年には因幡と改名し、同19年5月21日に45歳で死去。

百々越前守安行 (どどえちぜんのかみやすゆき 1548~1609)

 百々越前守安行は山内一豊に従い土佐に入国、高知城築城の総奉行にして土佐藩家老をつとめた。
 百々氏は室町時代の有力大名である京極氏の支流で、近江国犬上郡百々村(滋賀県彦根市)を拠点とする一族。 その嫡子である越前守安行は、はじめ織田信長に仕えるが、本能寺の変で信長が自刃すると、豊臣秀吉に従い山崎の戦いに参戦。 その後は岐阜城主織田秀信(1580~1605)に家老として仕え、朝鮮出兵にも加わった。関ヶ原戦では秀信は三成方に付き、家康方の西上狙撃を受けて落城。 百々越前守はその中で主君秀信の助命を交渉、秀信を出家させて一命をつないだ。
 戦後仕官先を失った百々越前守は、京都に隠棲するが、前田玄以らの仲介で一豊に仕えることとなり、その後一豊の元で実務担当者として能力を発揮した。

深尾重良 (ふかおしげよし 1557~1632)

 土佐藩筆頭家老の深尾氏は近江国(滋賀県)深尾村に出自をもち、重良の曽祖父重列の時美濃国(岐阜県)に移った。 重良は、弘治3(1557)年重政の子として生まれ、始め同国守護代斎藤氏に、織田信長の美濃平定後は織田氏に仕えた。
 重良は、本能寺の変で織田氏が没落したのち加賀に蟄居していたが、豊臣秀吉の家臣として近江長浜城主に出世した山内一豊のもとに身を寄せる。
 慶長6(1601)年、土佐藩主となった一豊とともに入国し、一万石を給され筆頭家老として佐川土居をあずかった。

小倉少助政平 (おぐらしょうすけまさひら 1582~1654)

 初期の土佐藩政を支えた重臣。長浜にて初代一豊に仕え、一豊の土佐入国に従って土佐に来国した。
 その後、2代忠義に起用され、元和3(1617)年からは仕置役を勤めることとなり、奉行職の野中直継とともに藩財政の赤字克服を目的とした元和改革を推進した。 様々な政策の中で、特に土佐藩の林産に注目し、領内の山地を巡察、50年を期限とする林伐制を創始した。
 また、上方に流浪していた幼年の野中益継(兼山)を土佐に迎え、野中家の養子として相続させている。 そして、子の三省政実とともに兼山の施政を支えている。

村上八兵衛 (むらかみはちべえ 不詳~1632)

 村上八兵衛は香美郡山北村(現香我美町)の出身で、父嘉兵衛は長宗我部氏の家臣であった。 八兵衛は山内一豊の土佐入国にあたり甲浦(現東洋町)まで出迎えに行き、以後、山内氏の領内政策に積極的に協力している。
 彼の事績で特に有名なのは「村上改」と呼ばれる新田検地である。 逼迫した藩財政の再建を目的に行われた「元和改革」に際し、2代藩主忠義から「国中出分(『長宗我部地検帳』に記されていない田地)之儀、能能(よくよく)念を入可相改」との命を請けた八兵衛は、元和7(1621)年から寛永8(1631)年にかけて土佐国各地を検地し、多くの新田を打ち出した。 その検地奉行を務めたのが八衛兵であり、彼の名は土佐の各地に残る土地帳簿に「村上改」として記され、明治の地租改正にいたるまで残ることとなる。

淡輪四郎兵衛 (たんのわしろべえ 1623~1695)

 慶安元(1648)年、淡輪四郎兵衛は野中兼山の大規模な郷士の取り立てによって郷士に召抱えられた。 元来淡輪家は和泉の国淡輪の武士であったが故あって没落、四郎兵衛の父が土佐に来国し船手として土佐藩に仕えていた。
 そして慶安3(1650)年、四郎兵衛は各浦で税の徴収を管理する分一奉行に任命されたのを皮切りにその能力を発揮し、取り立てより8年後の明暦2(1656)年には、土佐西半分の総浦奉行(漁業税の徴収、水主の管理、海防警備など浦方に関わるあらゆる行政を管轄とする役職)にまで昇進した。
 兼山失脚後も浦方支配の巧者として重用され、ついに土佐一国の総浦奉行に就任し、郷士としては異例の出世を遂げた。 だがその晩年、部下の汚職事件に関わり郷里の高岡郡宇佐浦に隠居、73歳で死去した。