城博コラム
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土佐藩の歴史-初期-

2019.11.27
  • 土佐藩の歴史

初期の土佐藩

関ヶ原合戦の功で土佐一国を拝領した山内一豊の入国により始まった土佐藩は、軍役への対応や婚姻関係によって江戸幕府体制の中での安定した地位を模索します。同時に領内への施策もすすめ、野中兼山の改革などによって藩政の基礎を確立しました。

主な事件

・一豊の入国と施策

一豊の治世は4年9ヶ月という短い期間ではありましたが、大高坂山に高知城を築いて城下町の整備を進め、領内要地に重臣を配置するなど藩政の礎を築いています。また長宗我部時代の旧政を引き継ぐことを表明し、民心の安定を図りました。
その一方で幕府との関係においては、養子に迎えた甥の忠義(のちの2代藩主)を家康の養女と縁組し、徳川家との絆を深めました。

・大坂の陣と軍役負担

徳川家が将軍となり幕府を開いたとはいえ豊臣家の影響力は大きく、初期の政情はいまだ不安定な状況でした。こうした情勢に決着を付けたのが、大坂の陣です。
かつては豊臣恩顧の大名であった山内家ですが、幕府からの命を受けて大坂城攻略に加わりました。ここでの働きは冬の陣・夏の陣ともに国許からの出兵が遅れて不首尾に終わりますが、その後も土佐藩には江戸城・大坂城などの城普請を始めとする重い役負担が次々と課せられていきました。

・初期の藩政改革

幕府から課される役負担に対応するため、2代藩主忠義は早くも窮迫した財政を立て直す必要に迫られます。そこでまず行われたのが「元和改革」でした。白髪山(しらがやま)の材木を上方へ移出し財源とする政策や、領内の検地を進めて経済的な基盤の確立を目指しました。
これをふまえ忠義の信任を受けた野中兼山がさらに新田開発や諸産業の導入を進め、多くの成果を上げていきます。しかし兼山の改革は一方で急進的な政策が民衆の生活を圧迫し、不満の声があがるようになります。この声を背景に家老達が弾劾状を3代藩主忠豊に提出、寛文3年(1663)に兼山は失脚に追い込まれました。


山内一豊印判状(慶長6年久万村庄屋・百姓中宛)
百姓たちに年貢の末進を禁じたもの。