城博コラム
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土佐藩歴代藩主紹介

2019.03.22
  • 山内家の歴史

初代 一豊(かつとよ)

生没年:天文14(1545)年~慶長10(1605)年 享年61歳
父:盛豊 母:法秀院(盛豊正室 梶原氏女とも二宮氏女とも)
通称:辰之助・猪右衛門
官位:正五位下対馬守 → 従四位下土佐守
※大正8(1919)年 贈従三位
家督:永禄2(1559)年 15歳(父・兄の死により家督相続)
正室:見性院(若宮氏女とも遠藤氏女とも)
法号:大通院殿心峯宗伝大居士 


尾張国岩倉城主(愛知県岩倉市)織田伊勢守家の家老山内盛豊の三男。弘治3(1557)年、織田信長の攻撃により父と兄を失い、浪々の後、信長の家臣であった木下藤吉郎(豊臣秀吉)に仕える。秀吉の死後、慶長5(1600)年の関ヶ原戦では徳川家康側につき、自らの居城を明け渡したりした功により、土佐一国を与えられた。夫人の見性院は、「名馬購入」の逸話で「賢婦の鏡」として知られる。

2代 忠義(ただよし)

 生没年:文禄元(1592)年~寛文4(1664)年 享年73歳
 父:康豊(一豊弟) 母:妙玖院(康豊後妻 水野氏女)
 通称:国松・伊右衛門
 官位:従五位下対馬守 → 従四位下土佐守・侍従
 *大正8年贈従三位
 家督:慶長10(1605)年 14歳(一豊の死去により家督相続)
 隠居:明暦2(1656)年 65歳
 正室:光照院(徳川家康養女・実は松平(久松)定勝女-桑名藩-)・青
 巌院(後妻・園池宗朝女-公家-)
 法号:竹巌院殿龍山雲公大居士


 一豊の弟山内康豊の長男。一豊夫妻には跡継ぎがなかったため一豊の養子となり、慶長10(1605)年に養父一豊が亡くなると2代藩主となった。当初は後見役として実父康豊が忠義を支えた。
 大坂の陣への出兵や幕府から課せられる普請役などへの対応で陥った財政難に対して、「元和改革(げんなかいかく)」を行い、寛永8(1631)年には野中兼山を奉行職に任じ改革を徹底させた。また寺社を保護し、陶器(尾戸焼)の生産を開始するなど、文化面でも活躍した。

3代 忠豊(ただとよ)

生没年:慶長14(1609)年~寛文9(1669)年 享年61歳
父:忠義(2代) 母:光照院(忠義正室)
通称:国松・伊右衛門
官位:従五位下対馬守 → 従四位下対馬守・侍従
家督:明暦2(1656)年 48歳(忠義の隠居により家督相続)
隠居:寛文9(1669)年 61歳
正室:長光院(池田利隆女-姫路藩-)
法号:徳昌院殿傑山宗英大居士


 明暦2(1656)年に父の隠居により3代藩主となったが、藩政は忠義の時代に続いて野中兼山が指揮をとっていた。
 兼山が進める強硬政策に対して、次第に藩民や譜代の家臣たちから不満の声があがり、忠豊は寛文3(1663)年に家老の生駒正重・孕石元政・深尾重昌らと協議のうえ、叔父の松山藩松平定行の了解を得て、ついに兼山を解任。その後「寛文改替」と呼ばれる改革が実施され、兼山の施政期に定められた諸制度が緩和され、藩経済は安定成長期に移行した。

4代 豊昌(とよまさ)

生没年:寛永18(1641)年~元禄13(1700)年 享年60歳
父:忠豊(3代) 母:母長光院(忠豊正室)
通称:国松
官位:従五位下筑後守 → 従四位下土佐守・侍従
家督:寛文9(1669)年 29歳(忠豊の隠居により家督相続)
正室:仙寿院(松平(久松)定頼女-松山藩)・宝雲院(後妻・三条公冨女-公家)
法号:覆載院殿含弘周徳大居士


 3代目藩主忠豊の長男。寛文9(1669)年に父の跡を継いで4代藩主となる。
 天和元(1681)年、新しく召し抱える家臣へは土地を与える「地方知行」から、米を与える蔵米知行にし、年貢制度にも改革を加えるなど、安定した財政の実現を目指した。これらの改革を「天和改革(てんなかいかく)」という。
 元禄3(1690)年には、寛文改替以降の法令をまとめた「元禄大定目(げんろくおおじょうもく)」を制定し、これは長らく土佐藩の法令の指針となった。しかし、同11年には城下の大半が焼失するなど、財政を圧迫する事件も多発した。

5代 豊房(とよふさ)

生没年:寛文12(1672)年~宝永3(1706)年 享年35歳
父:一俊(指扇山内家3代) 母:浄心院(一俊正室・鳥居氏女-高遠藩-)
通称:兵助・民部
官位:従五位下民部大輔 → 従四位下土佐守・侍従
家督:元禄13(1700)年 29歳(豊昌の死去により家督相続)
正室:高寿院(4代豊昌女)・玉仙院(後妻・池田綱政女-岡山藩-)
法号:天曄院殿俊山泰雄大居士


 山内家の分家・旗本武蔵指扇(さしおうぎ)(埼玉県さいたま市)山内家(三千石)の3代当主山内一俊の長男。4代豊昌には男子がおらず、元禄2(1689)年に豊昌の娘婿という形で跡継ぎとなり、指扇山内家の領地は幕府に返上、養父の死去に伴い5代藩主となった。豊房は儒学者谷秦山を起用し、文治を理念の基本とした政治を推し進めた。家老の深尾規重を奉行職として、藩札の発行などの財政改革を目指したが、宝永3(1706)年に改革の成果を待つことなく35歳で死去した。

6代 豊隆(とよたか)

生没年:延宝元(1673)年~享保5(1720)年 享年48歳
父:一俊(指扇山内家3代)母:浄心院(一俊正室・鳥居氏女-高遠藩-)
通称:松之助・右京・猪右衛門
官位:従四位下土佐守・侍従
家督:宝永3(1706)年 34歳(兄豊房の死去により家督相続)
正室:なし
法号:龍泉院殿静国鉄心大居士


 指扇山内家の3代当主山内一俊の二男。宝永3(1706)年に兄の5代豊房が跡継ぎがいないまま死去したため、6代藩主となった。
 藩財政の逼迫状況に対し、家臣の減給や紙の専売制度などを導入するなど「宝永改革」を実施し、政策の一部は後世の財政策の基本となった。
 高い政治手腕を有していたといわれる一方で、人望の厚かった儒学者谷秦山や奉行職深尾規重を解任したうえ、財政難を理由に幕府より免除された江戸参勤を、江戸にいる母の看病のために強引に再開したり、自身が発した倹約令に対する熱意に欠けるなど、時折私事を優先することがあり、後世の批判を受けた。

7代 豊常(とよつね)

生没年:正徳元(1711)年~享保10(1725)年 享年15歳
父:豊隆(6代) 母:円徳院(豊隆側室・北川氏女)
通称:亀千代・大助
官位:従四位下土佐守・侍従
家督:享保5(1720)年 10歳(豊隆の死去により家督相続)
正室:なし(松平定逵女-高田藩-と婚約するも婚儀前に死去)
法号:旭光院殿天岳良英大居士


 6代目藩主豊隆の三男。兄2人が幼くして亡くなったため、享保5(1720)年に父の死去に伴い、7代藩主となった。豊常はまだ10歳と幼かったため、藩政は重臣たちによる合議制で進んだ。
 6代豊隆に蟄居(ちっきょ)を命ぜられていた深尾規重が赦免されて補佐役となったが、規重はわずか1年で亡くなった。
 豊常は、8代将軍徳川吉宗が行った「享保改革」の影響を受けて、倹約の奨励・旧習打破などの藩政改革を目指したが生来健康勝れず、享保10(1725)年にわずか15歳で亡くなった。

8代 豊敷(とよのぶ)

生没年:正徳2(1712)年~明和4(1767)年 享年56歳
父:深尾規重(家老) 母:清涼院(規重正妻・西大路氏女-公家-)
通称:政之助・市正・伊右衛門
官位:従四位下民部大輔・侍従 後に土佐守
家督:享保10(1725)年 10歳(豊常の死去により家督相続)
正室:端光院(6代豊隆女)
法号:大昌院殿天徳承真大居士


 家老家の一つである深尾東家深尾規重の長男。享保10(1725)年に7代豊常が跡継ぎのないまま亡くなったため、6代豊隆の娘(7代豊常の妹)と結婚して藩主となった。
 享保12(1727)年の高知城下の大火による高知城・城下の再建工事、そのうえ飢饉が続き、厳しい財政状況が続いた。その対策として藩政は商業資本との関係を深めていったが、宝暦5(1755)年に紙専売制に反対する津野山一揆が起こった。
 土佐南学を藩学の柱に位置づけ、宝暦9(1759)年には藩校「教授館(こうじゅかん)」を設置するなど、学問や文化に理解を示した。

9代 豊雍(とよちか)

生没年:寛延3(1750)年~寛政元(1789)年 享年40歳
父:豊敷(8代) 母:貞光院(豊敷側室・伊佐々氏女)
通称:松之丞・国松
官位:従四位下筑後守→土佐守・侍従
家督:明和5(1768)年 19歳(豊敷の死去により家督相続)
正室:観月院(毛利重就女‐萩藩‐)
法号:靖徳院殿融昭彜寛大居士
 4人の兄が夭折したため、明和5(1768)年に父の跡を継いで9代藩主となった。
 豊雍は家臣の規律や風紀を厳しく取り締まり、天明の大飢饉への対応に積極的に取り組んだ。また学問を基本に据えた政治を目指して、学者の谷真潮(たにましお)らを登用し、家臣に対しては知行を借上し、自らも厳しい倹約を行った。(天明の改革)しかし、天明7(1787)年には飢饉による困窮と紙の専売制への反発から、吾川郡池川と名野川の農民700人が伊予へ逃散し、高知城下でも打ち壊しが起きるなど、藩政の矛盾は大きくなっていった。兼山以来の学問好きといわれ、長岡郡比江村(南国市比江)に紀貫之顕彰碑を建てている。

10代 豊策(とよかず)

生没年:安永2(1773)年~文政8(1825)年 享年53歳
父:豊雍(9代) 母:観月院(豊雍正室)
通称:邦之丞 隠居後は兵部大輔・木工
官位:従四位下筑後守→土佐守・侍従
家督:寛政元(1789)年 17歳(豊雍の死去により家督相続)
隠居:文化5(1808)年 36歳
正室:融相院(藤堂高嶷女‐津藩‐)
法号:泰嶺院殿曄山顕常大居士
 寛政元 (1789)年10月に父の死去にともない10代藩主となった。
 豊策は父の改革路線を継承して倹約につとめつつ、藩校「教授館」の拡充をはかり、寛政8(1796)年に馬詰親音(うまづめもとね)を頭取役に任命した。馬詰は砂糖製造を土佐で計画して産業の発展を目指しながら、町奉行拝命後は城下に井戸を掘り、備荒貯蓄のため倉庫を設置するなど都市整備をはかった。
 その一方、寛政9(1797)年に郷士と上士との間に殺傷事件が起こった。江戸時代の身分秩序にも動揺が起こりつつあったため、文化3(1806)年には、藩祖一豊夫妻と2代忠義を祭神とする藤並神社を建立し、国を挙げての祭礼を実施、藩政の引き締めをはかった。

11代 豊興(とよおき)

生没年:寛政5(1793)年~文化6(1809)年 享年17歳
父:豊策(10代) 母:院号不詳(豊策側室・児玉氏女)
通称:丑五郎・邦之丞
官位:従四位下筑後守→土佐守・侍従
家督:文化5(1808)年 16歳(豊策の隠居により家督相続)
正室:なし(上杉治広女‐米沢藩‐と婚約するも婚儀前に死去)
法号:寛邦院殿泰運源心大居士
 10代豊策の長男として江戸で生まれ、生後4ヶ月で高知に移り、9歳まで土佐で過ごす。文化5(1808)年に父の跡を継いで、16歳で11代藩主となるが、翌年の3月江戸で病死し、わずか1年余りの在位でおわった。

12代 豊資(とよすけ)

生没年:寛政6(1794)年~明治5(1872)年 享年79歳
父:豊策(10代) 母:白禎院(豊策側室・増井氏女)
通称:金寿・政太郎 隠居後は兵部大輔・景翁
官位:従四位下土佐守・侍従→左近衛少将→右近衛少将
家督:文化6(1809)年 16歳(豊興の死去により家督相続)
隠居:天保14(1843)年 50歳
正室:祐仙院(池田斉政女‐岡山藩‐)
法号:神道につき法号なし


 文化6(1809)年に兄豊興の跡を継いで12代藩主となる。
 専売制度の強化・新田改め・備荒貯蓄策の実施や、藩校「教授館」での医道教授など、藩政・学問に積極的に取り組む。しかしこのような政策にも効果がなく、天保12(1841)年には庄屋同盟が結成され、待遇の改善を求め、翌年には吾川郡名野川農民が伊予へ逃散する事件も起こった。
 天保14(1843)年に家督を長男の豊凞にゆずり、隠居後はもっぱら土佐で能や釣りなど趣味に投じた。13代豊凞・14代藩主豊惇の相次ぐ死去の際には、指示を出して土佐藩存亡の危機を救い、15代豊信・16代豊範の代にも藩政に影響を与えた。

13代 豊凞(とよてる)

生没年:文化12(1815)年~嘉永元(1848)年 享年34歳
父:豊資(12代) 母:美芳院(豊資側室・大賀氏女)
通称:直寿・政太郎・晟太郎
官位:従四位下対馬守→土佐守・侍従
家督:天保14(1843)年 29歳(豊資の隠居により家督相続)
正室:智鏡院(島津斉興女‐薩摩藩‐)
法号:養徳院殿後鏡視倹大居士


 12代豊資の長男として土佐に生まれる。天保14(1843)年父の跡を継いで13代藩主となった。9代豊雍が行った政策「天明改革」を模範として、「天保改革」を実行。勘定方馬渕嘉平(まぶちかへい)など、新進気鋭の集団に革新策を進めさせたが、山内家の分家や家臣たちはそれを喜ばず、「おこぜ組」と呼んで異端視し、12代豊資に訴えて失脚させた。諸方からの圧力にも屈せず、自らも倹約を進め、華美を当然とする風潮を刷新し、分家の経費削減を目指した。その他にも「医学館」や「武芸所」を設置し、領内を巡見するなど、積極的に改革を進めた。幼い時から学問や武芸に励み、その才能は傑出したものだったといわれている。

14代 豊惇(とよあつ)

生没年:文政7(1824)年~嘉永元(1848)年 享年25歳(幕府へは嘉永2年死去と届け)
父:豊資(12代) 母:美芳院(豊資側室・大賀氏女)
通称:兵部・式部
官位:なし
家督:嘉永元(1848)年 25歳(豊熈の死去により家督相続)
隠居:嘉永元(1848)年 享年25歳(実はすでに死去)
正室:なし(三条実万女‐公家‐と婚約するも婚儀前に死去)
法号:譲恭院殿篤信自省大居士


 12代豊資の四男として土佐に生まれ、弘化元(1844)年に分家東邸山内家の家督を相続。嘉永元(1848)年に兄の13代豊凞が、跡継ぎがいないまま危篤となったことをうけて末期養子(まつごようし)となり、同年9月6日に14代藩主となる。
 ところが、豊惇は藩主となってわずか12日後に急死する。藩は豊惇の死を伏せて、幕府へは病気のため隠居と届け、分家の豊信を養子とすることを画策、その実現を待って死去を届け出た。

15代 豊信(とよしげ)


生没年:文政10(1827)年~明治5(1872)年 享年46歳
父:豊著(南邸初代) 母:梅林院(豊著側室・平石氏女)
通称:輝衛・兵庫助 隠居後は容堂
官位:従四位下土佐守・侍従→従四位上左近衛少将
維新後に正二位・権中納言 ※明治5年(1872)贈従一位
家督:嘉永元(1848)年 22歳(豊惇の隠居(実は死去)により家督相続)
隠居:安政6(1859)年 33歳
正室:禎祥院(三条実万養女・烏丸光政女‐公家‐)
法号:神道につき法号なし
 分家南邸山内家の当主だったが、嘉永元(1848)年に14代豊惇が急死したため、15代藩主となった。藩内では吉田東洋を仕置役に抜擢、後に「安政改革」と呼ばれる財政・海防・教育改革を進めた。将軍の跡継ぎ問題では一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を推したが、大老井伊直弼と対立して安政6(1859)年に隠居謹慎となり、隠居後は「容堂」と号した。謹慎が解かれた後は、幕府と朝廷の融和を目指し、慶応3(1867)年に、将軍徳川慶喜に大政奉還を建白、実行に導いた。同年末に朝廷で行われた小御所会議で、徳川家を擁護したが認められなかった。豪気な行動をとる反面、大変神経質だったといわれている。

16代 豊範(とよのり)


生没年:弘化3(1846)年~明治19(1886)年 享年41歳
父:豊資(12代) 母:院号不詳(豊資側室・沢田氏女)
通称:熊五郎・鹿次郎
官位:従四位下・土佐守・侍従→従四位上・左近衛少将
*維新後に従三位 死去の直前に従二位
家督:安政6(1859)年 14歳(豊信の隠居により家督相続)
正室:蓮光院(毛利敬親女‐萩藩‐)・栄姫(後妻・上杉斉憲女‐米沢藩‐)
法号:神道につき法号なし


12代豊資の十一男で、15代豊信の養子となり、安政6(1859)年に藩主となった。
 明治元(1868)年の戊辰戦争では、藩兵を東山道から東北へ派遣し、薩長とともに官軍の主力部隊となった。
 明治2(1869)年に薩摩・長州・肥前藩主とともに版籍奉還(はんせきほうかん)を申し出て、豊範は高知藩知事となる。知事として藩政改革に着手するが、同4年には廃藩置県が決まり、豊範は藩知事を免ぜられ上京した。その後は政治から退き、鉄道や銀行事業へ投資をしたり、自らも植林などの事業をおこす一方、「海南学校」を創立して人材育成にも力を注いだ。明治17(1884)年に華族令が発布され、侯爵となった。