城博コラム
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土佐藩の歴史-幕末維新期-

2019.11.27
  • 土佐藩の歴史

幕末維新期の土佐藩

黒船来航ののち開国・攘夷をめぐる混乱の時代に入ると、土佐藩では藩主豊信が幕府の中枢に迎えられ、公武合体論を推し進めて大政奉還などの局面で重要な働きをします。その一方で土佐出身者からは、藩の枠組みをこえて活躍する多くの志士を輩出しました。

主な事件

・黒船来航と15代豊信(容堂)の政治

前藩主の急逝により中継ぎの藩主となった豊信(容堂)でしたが、黒船来航により時勢への対応が急務となると、吉田東洋を仕置役(参政)に起用し、改革の手腕を振るいました。しかし将軍継嗣問題で一橋派が敗れると豊信も隠居・謹慎処分を受け、改革を引き継いだ東洋も尊王攘夷の気運の高まりの中で暗殺され、改革は道半ばで中断されました。

・公武合体の周旋と国力増強

東洋暗殺後の土佐藩は、土佐勤王党の盟主武市半平太(瑞山)を中心に、尊王攘夷の動きを強めます。そうした中豊信の謹慎が解け前藩主・容堂として政界に復帰、将軍家茂の上洛による公武合体実現に尽力します。
しかし、容堂と勤王党の思いは一致せず、中央政治の情勢が変わり、朝廷から尊王攘夷派が一掃されると武市半平太以下の勤王党員は捕らえられ、長州戦争の開戦をみて切腹などの処分が下されました。
土佐へ帰国後の容堂は吉田東洋の甥である後藤象二郎に改革を任せ、開成館の設立や蒸気船・武器の購入などにあたらせて国力の増強につとめました。

・大政奉還の建白と倒幕

坂本龍馬が薩長同盟を成立させ倒幕の動きが強まる中、龍馬や後藤は大政奉還の動きを進め、容堂を動かしてついにそれを実現させます。
一時は内戦を回避したかに見えましたが、西郷隆盛や岩倉具視を中心に計画されたクーデターにより情勢は一変、戊辰戦争へなだれ込みます。
容堂は最後まで徳川家擁護のために尽力しますが、戦火があがると官軍に加わり、板垣退助率いる土佐藩兵が東進して会津若松城攻略にあたりました。
明治4年、廃藩置県により藩が消滅すると、山内家は16代続いてきた藩主の地位を降ります。上京した最後の藩主豊範(とよのり)は、近代華族制度の中で侯爵に位置づけられました。


坂本龍馬書状 乙女宛
時勢を見極めることの重要性を説いた、意味深な記述の手紙。